平成15年8月1日記
子どもたちの不登校やいじめ、果ては殺人などの凶悪な暴力事件が後を絶ちません。それどころか、おとなに成りきれないおとなたちによる凶悪事件も頻発しています。これらに共通しているのは、他人との関係、関わり方、つき合い方のまずさ、稚拙さです。それは、結局他人の気持ちがわからないことによるのだと思います。
私たちでも、電話なら言えるという場合があります。しかし、それは内容が相手にとって受け容れがたかったり、ずうずうしいことを依頼したりする場合であって、親しい友だちとの会話はやはり顔を突き合わせて、相手の表情、身振り手振り、姿勢や服装などを見ながらでないと楽しさも半減するような気がします。
この立ち居振る舞いを、日本の文化は大切にしてきたはずです。古典芸能やお稽古ごと、各種武道など、まず立ち居振る舞いの「形」を徹底的にたたき込まれます。たとえば、茶道は合理的で無駄のない洗練された動作の「形」にその真髄があるのではないでしょうか。
実は、永平寺での修行でも、まず「形」を徹底的に教え込まれます。それは、「威儀即仏法」と言われます。「威儀」は一般には「いぎ」と読みますが、私たちは「いいぎ」と読み、服装の種類やその着方、着用の様子、また身体の動かし方・立ち居振る舞いを言います。つまり、日常の姿形・立ち居振る舞いが、そのまま仏の教えであり、仏の教えを実践することだというのです。
法衣・お袈裟の着け方から始まって、坐禅の仕方、礼拝の仕方、お経のあげ方、食事の仕方、手洗いの使い方、風呂の入り方、掃除の仕方、挨拶の仕方、電話のかけ方、就寝にいたるまで、一日二十四時間、一年三百六十五日の進退作法をみっちりと仕込まれます。
三月に永平寺に上山し、初めてお盆に帰ってきたとき、亡くなった師匠は、私の合掌の仕方を見て、「お前も僧侶になったな」と喜んでくれたものです。
宗教は思想ではありません。実践が伴ってこそ宗教であり、生活そのものが宗教です。「形」を追体験することによって、たとえば同じように行じてきた過去の仏や祖師の気持ち、悟りを理解するということになります。永平寺で「威儀即仏法」というのはこのような意味なのだと思います。
個性が重んじられる現代ですが、その前に他人と同じ動作、立ち居振る舞いを体験することにより、人の気持ちのわかる、少しでもわかるということが今必要とされているのではないでしょうか。