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開基新発田藩主溝口家
宝光寺の開基は、新発田藩祖溝口秀勝公です。
その後、江戸時代は歴代藩主に外護されてまいりました。
このコーナーでは、歴代藩主について紹介してまいります。
初代藩主 溝口秀勝公の御生涯
秀勝公は、天文十七年(1548)、尾張国中島郡西溝口村に、地侍溝口勝政の長男として生まれました。幼名は竹、元服後は定勝と名乗りました。
織田信長の家臣、丹羽長秀に仕えて武功をたて、天正九年(1581)、長秀の与力大名として若狭国高浜城主となり、五千石を与えられました。
天正十一年(1583)の賎ケ谷の戦いでは、敦賀にあった秀吉軍に馳せ参じ大いに功をたてました。これによって加賀国大聖寺城主となり、四万四千石を与えられました。
天正十三年(1585)四月十六日、主君の丹羽長秀が病没し、その遺領は息子の長重が相続しました。しかし、八月には秀吉は長重の所領を削り、秀勝公を独立の大名としました。
翌天正十四年、従五位下に叙せられ、豊臣の姓と諱の秀の字をたまわり、伯耆守に任ぜられました。
天正十五年(1587)には、700人の兵を率いて秀吉の九州島津征伐に従軍し、天正十八年(1590)には、秀吉の小田原北条攻めに北陸軍団の第一線部隊として従軍しました。
文禄元年(1592)から慶長三年(1598)まで続いた秀吉の朝鮮出兵のおりには、肥前名護屋の本営勤務を果たしました。
このほかに、大坂城の普請手伝い、京都東山の大仏殿造営の手伝いなど、わずか14年間の秀勝公の大聖寺時代は従軍と普請手伝いに明け暮れたことになります。
慶長三年(1598)正月、越後の領主上杉景勝が会津に移封されました。それにともない、越前北の庄(現在の福井市)から堀秀治が高田に移封され、秀勝公は新発田6万石の初代藩主として入封しました。
旅の途中、寺泊や猿ケ馬場で賊徒に襲われましたが、寺泊の豪商五十嵐氏や新潟町の豪商大須賀氏・玉木氏に助けられということです。
千人を越す家臣とともに、御用商人や御用職人、また当山(当時は大麟寺と呼ばれていました)の二代目の住職雪崗全林和尚や秀勝公の奥方の菩提寺である瑞雲寺の開山(初代住職)嶽翁麟	DDF;和尚(後の当山の四代目住職)、また秀勝公の父君の菩提寺託明寺の住職祐念上人なども付き従ってきました。また、かなり多数の百姓もやって来たと伝承されています。
秀勝公は、現在の新発田の市街地の数キロメートル東方に位置する五十公野(いじみの)の地に仮の館を設け、新しい藩領の支配を始めました。
上杉時代の支配者新発田重家の居城跡に、数倍規模の新発田城の建設と城下町の整備が開始され、三代藩主宣直公の時代に一応の完成を見ました。
藩領は現在の新発田市、聖籠町、新潟市の東部、水原町、横越町、新津市、白根市、小須戸町、田上町、加茂市、中之島町に及ぶ広大なものでしたが、そのほとんどは湿地帯で、大小の河川や多くの潟・沼・池などが散在した未開墾地が多く残された土地でした。
秀勝公は治水・用水工事を進め、新田開発を奨励しました。これは、明治期まで代々の藩主に受け継がれ、現在の穀倉地帯蒲原平野の基礎が作られました。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方し、上杉遺民一揆(越後一揆)を平定しましたが、この労に対して、家康から感状を与えられました。
慶長十二年(1607)には、江戸城堀普請を命ぜられ、以後外様大名としての地位を確立しました。
秀勝公は、江戸三百年間の新発田藩主としての基礎を築き、慶長十五年(1610)九月二十八日、享年63で没しました。
遺体は五十公野で荼毘に付され、現在遺骨は当山の墓塔に納められています。
御戒名は、寳光寺殿性翁淨見大居士と申されます。
(小村弌監修『新発田市史 上巻』(昭和55年、新発田市)、平山靖夫「初代藩主溝口秀勝の生涯」(『第4回こども・まち探検歴史の陽だまり散歩』、平成12年)を参考にしました)
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